大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和51年(う)2505号 判決

控訴人 被告人

被告人 村田勝美

弁護人 菅原克也 外二名

検察官 今野健

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人菅原克也、同高木健一、同長谷川幸雄が連名で提出した控訴趣意書及び控訴趣意補充書並びに弁護人菅原克也、同高木健一が連名で提出した控訴趣意補充書(2) にそれぞれ記載されているとおりであり、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事畠山惇が提出した答弁書及び答弁要旨補充書にそれぞれ記載されているとおりであるから、いずれもこれを引用する。

控訴趣意第一(理由不備及び理由齟齬の主張)について

所論は、原判決には同判示第一の事実につき理由不備及び理由齟齬の違法がある。すなわち、原判決は、被告人が村田よね子(以下単によね子という。)を殺害した方法として、「ここにおいてこの際同女を死に至すもやむなしと決意し、ぐつたりとしてうつ伏せになつたままの同女の上に、就寝用布団六枚を順次積み重ね、そのまま放置して同女が窒息死するのを待つうち、」「同日午后二時頃、」「同女を右八畳床の間に引きずり込んだうえ、引き続き殺意をもつてその場にうつ伏せにし、その上から再び就寝用布団一一枚を順次積み重ね、そのまま同日午后五時頃まで放置し、よつてその頃同所において、同女を遷延性窒息により死亡させて殺害し」たと判示しているが、右の判示では、布団一一枚を積み重ねたことによつて生じた窒息が、胸廓部圧迫または外呼吸口(鼻口部)の閉塞あるいは密閉された空間が生じたことによる酸素欠乏のいずれに基づくものか明確でなく、この意味で原判決は被告人がよね子を殺害した方法を特定していないといわなければならないから、原判決には理由の不備がある。また、原判決は、審理不尽の結果、証拠力の極めて弱い解剖立会結果報告書中の法医学の専門家でない一警察官が記載したところを採用して、よね子の死亡の原因となつた窒息を遷延性窒息と認定判示しているが、遷延性窒息とは、一度窒息状態に陥つたが、その窒息が不十分でこれによつて生ずる脳神経の障害も決定的なものでないため、直ちに死亡することなく、その後右障害が徐々に拡大し、結局死に至る場合をいうのであつて、窒息状態に陥つたのち死に至るまでに二、三時間から一〇時間という長い時間がかかるため、これを遷延性窒息と呼ぶのであるが、原判決はよね子が何時どのようにして不十分な窒息状態に陥つたかを判示しておらず、この点においても原判決には理由の不備がある。さらに、原判決は、審理不尽の結果、よね子の体の上に布団一一枚を積み重ねたことにより、空気の密閉状態を現出させ、そのため酸素欠乏が生じてよね子を窒息死させたと認定しているとも解されるが、そうであるとすると、酸素欠乏による窒息は急性窒息であり、遷延性窒息ではないから、よね子の死亡が遷延性窒息によるものであると認定判示している原判決には理由のくいちがいがあるということになるばかりでなく、原判決がよね子の死亡原因について挙示している証拠中最も重要な三木敏行作成の鑑定書には、よね子の死亡原因となつた窒息は鼻口部の閉塞によると考えるのが妥当であると記載してあるのであつて、原判決の右認定は右証拠と矛盾しており、原判決には証拠理由の不備があるといわなければならないというのである。

そこで、まず原判決の判文上被害者殺害の方法が特定されていないとの所論について検討するのに、原判決は、右の点について、被告人が、よね子の両手足を緊縛し、二重に猿ぐつわをかませたうえ、うつ伏せになつている同女の体の上に一一枚の布団を積み重ねて放置し、よつて同女を遷延性窒息により死亡させたと明確に判示しているのであつて、判文上その殺害方法は十分に特定されているといわなければならない。そして、有罪判決の理由として示される罪となるべき事実は、特定の事実が刑法各本条の構成要件に該当するか否かが判断できる程度に具体的であれば足りるのであつて、所論がいうようによね子の窒息が胸廓部圧迫または鼻口部閉塞あるいは酸素欠乏のいずれによつて生じたものであるかの点についてまで精密に判示しなければ、罪となるべき事実の判示として十分でないとはいえないから、原判決には所論のような意味で罪となるべき事実の判示に欠ける点があるとは認められない。

また、所論は、原判決はよね子が何時どのようにして不完全な窒息状態に陥つたかを判文上明確にしていないとして、原判決には理由不備があるとし、その前提として、原判決がよね子の死因となつた窒息を遷延性窒息と認定判示しているところにそもそも問題があるかの如く主張している。ところで、被告人の行為によつてよね子が窒息死したか否かは事実認定上極めて重要であるが、仮にその事実が認められるとすれば、その窒息が法医学上急性窒息と呼ぶべきものか、あるいは遷延性窒息と呼ぶべきものかという点に事実認定上重要な意味があるとは考えられない。従つて、ここでは事実認定の問題としてではなく、所論の主張する理由不備の前提問題として原判決の右認定について検討してみるのに、原判決の証拠説明と一件記録を対照すると、原判決の認定は、所論がいうように、司法警察員作成の解剖立会結果報告書に、解剖の結果として死因は遷延性窒息である旨記載してあるところに基づくことが明らかであるところ、右報告書は前述のとおり法医学の専門家ではない警察官が作成したものであるけれども、当審における証人三木敏行の証言によると、東京大学教授で同大学法医学教室に勤務する同証人が、よね子の死体を解剖した際、立会つた警察官に対し、同女が窒息死するまでには普通の急性窒息の場合より時間がかかつたのではないかとの趣旨の説明をし、警察官が同教授の説明に従つて前記のとおり報告書に記載したものと推認できるうえ、同証人は、遷延性窒息について総ての人に共通する画一的定義は存しないとし、同証人としては、遷延性窒息死とは、窒息の要因が弱く、かなり時間を要して死亡する場合をいうものと解する旨証言しているのであつて、右証言を参酌すれば、前記報告書によつてよね子の窒息が遷延性窒息であるとした原判決の認定は是認できるし、学者の間においても画一的定義の存しない問題について、所論が特定の定義に基づいて原判決の前記認定を論難するのは失当といわなければならない。そして、罪となるべき事実の判示に当たつて要求される具体性の程度については、さきに説示したとおり刑法各本条の構成要件に該当するか否かが判断できれば足りると解されるから、原判示のような方法で人を窒息死させた場合に、何時どのような経過で被害者が脳神経に障害を生ずるような不完全な窒息状態に陥つたかを精密に判示しなければ、罪となるべき事実の判示として不十分であるといえないことは明らかである。

なお、所論は、原判決は被害者の窒息は酸素欠乏による旨判示しているものと解することができるとして、これを前提として、原判決には理由のくいちがい及び証拠理由の不備があると主張しているが、判文を検討すると、原判決は被害者の窒息が被告人の行為によつて生じたものであるとはいつているけれども、それ以上に被害者が胸廓部圧迫または鼻口部閉塞あるいは酸素欠乏のいずれによつて窒息したかという点については何ら認定判示していないとともに、そのような点についてまで精密に判示することが罪となるべき事実の判示として不可欠のものでないことはさきに説示したとおりである。従つて、原判決が酸素欠乏による窒息死を認定判示しているとして原判決の理由齟齬ないしは証拠理由の不備を主張する所論は、その前提を誤つているといわなければならない。

以上のとおり、原判決には所論のいうような審理不尽に起因する理由の不備も理由の齟齬も存在せず、論旨は理由がない。

控訴趣意第二(事実誤認及び法令適用の誤りの主張)について

所論は、原判決には、同判示第一の強盗殺人の事実につき、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認及び法令適用の誤りがある。まず、よね子の死亡は被告人の行為によるものではない。すなわち、同女の死亡時刻については明確な証拠がなく、確かなのは被告人が食事のため外出してよね子方に帰つて来た昭和五一年一月七日午後七時すぎころには同女が死亡していたという事実だけであるが、同女の死体解剖の結果明らかになつたその胃中の餅の消化状況からすると、同女は食後約一時間、最大限にみても二時間で死亡したと考えざるを得ないところ、同女が同日午前一一時ころから午后五時ころまでの間に食事をした事実はないから、同女は被告人が同女を布団蒸しの状態にして食事のため同女方から外出した午后五時以降に餅を食べたとしか考えられないのであつて、右事実によれば、被告人が布団蒸しにしたことによつて同女が死亡したものでないことは明らかである。また、原判決の被害者殺害方法に関する判示は明確を欠くが、原判決は、これを善解すれば、被告人が、よね子の体の上に布団一一枚を積み重ねて同女を密閉された空間に閉じ込め、これをそのまま放置して右空間が酸素欠乏状態になるのを待ち、午后五時ころに至つて右空間の酸素欠乏状態を現出させ、同女を酸素欠乏によつて窒息死させたと認定したものと解される。しかしながら、被告人は、原判示の床の間付きの八畳の間において、興奮して投げつけるように布団をかけたのであるから、実際によね子の体の上に積み重なつた布団は一一枚のうち半分くらいの五、六枚程度にしかすぎない。従つて、同女は顔面を殴られるなどの暴行を受けたのち、両手、両足を緊縛され、猿ぐつわをされていたものではあるが、その布団蒸しから脱出しようと思えば両足で畳を蹴つて脱出できたのに、そのまま余り動かないでいたのは、同女が布団の隙間や畳の隙間から呼吸できたたためであると考えるほかないのであつて、原判決がいうようによね子の体の上に布団を積み重ねて放置したことにより午后五時ころに至つてようやく窒息死に至るべき酸素欠乏状態が現出したなどと考える余地はないから、この点においても被告人の行為は同女の死亡とは関係がないといわなければならない。また、仮に被告人の行為によつてよね子が死亡したとしても、被告人には殺意がなかつた。すなわち、被告人の行為は本来客観的に見て人を殺害するに足りるものではないうえ、被告人には同女を殺害する動機もなかつたのであつて、被告人としては、亡父死亡の状況をよね子の口から直接聞き出したいと強く願望していたのに、同女がこれを無視したので、その余りにも理不尽な態度に憤激して同女に対して感情的に暴行を加えた後、同女をして被告人の父親の死亡状況等を誠意をもつて説明させ、その遺産を正当に分割して被告人に引渡すべきものはこれを引渡すよう態度を改めさせる等の目的の下に、同女を緊縛し、同女が騒ぐのを防止するためもあつて、同女の体の上に布団をかけて放置したけれども、その後名嘉正順(以下単に正順ともいう。)らの仲介で同女と仲直りして総てを水に流すことができると信じていたのであつて、被告人にはよね子を殺害する確定的故意も未必的故意もなかつたのである。従つて、もし被告人の行為によつてよね子が死亡したとするなら、その行為は単に監禁致死罪に該当するものに過ぎないのに、原判決は、審理不尽の結果被告人にはよね子を殺害する動機があつたと認定し、被告人の捜査官に対する供述調書や名嘉正順及び名嘉紀男(以下単に紀男ともいう。)の原審証言等の評価を誤つて、被告人には同女を殺害する確定的故意が存した旨事実を誤認したものである。なお、原判決が認定しているように被告人が財物を強取した事実もない。すなわち、原判決は、被告人がよね子方四畳半の間において同女を緊縛するなどしたうえ、同女の体の上に布団を積み重ねて放置している間に、同女方台所のひき出し内などから同女所有の現金及びダイヤ指輪を強取した旨認定判示しているが、被告人は、よね子の体の上に布団をかけて放置したのち、正順らの仲介によつて同女と仲直りし、同女が被告人に金員を交付してくれるものと信じていたのであるから、金品を強奪する必要はなく、従つて、被告人は、財物強取の意思を有しておらず、ただ不法によね子が独り占めしている亡父の遺産の状態を点検しただけであつて、その行為は財物強取に当らない。また、原判決が被告人において強取したとしている現金のうち、袋に入つた多数の一〇円硬貨及びオリンピツク記念硬貨は、被告人が原判示の八畳の間でよね子の体の上に布団をかけたのち、食事のため外出する際同女方家屋内に残しておいたもので、被告人が右外出の際同女の生存を確認し、後刻同女と仲直りできるものと考えていたことなどからすると、右金員については財物奪取の要件である占有移転の事実すらなかつたといわなければならないというのである。

そこで、所論に基づいて原判決の事実認定の当否を判断するため、まず本件強盗殺人の事実についての被告人の供述及び被告人が原審において、よね子殺害の真犯人であると主張している名嘉紀男の原審証言を検討するのに、被告人は、原審第七回及び第八回公判において、よね子に対して暴行を加えた事実はあるが、その暴行は同女の死亡とは関係がなく、同女を殺害したのは紀男である旨所論に沿う供述をしている。そして、被告人がその経緯として説明するところによると、被告人は、ダイヤモンドを買つて儲けようという考えで、紀男の実兄である正順らとともに昭和五〇年一二月二五日沖縄を出発して北海道に赴いたが、その目的を達することができず、昭和五一年一月一日正順と二人で東京まで帰つて来た。被告人はそこで正順から二〇〇万円程の金を作れと要求され、その方法としては、よね子が被告人の父を殺したとして同女を告訴する旨おどし、同女から金を出させろとも指示された。そこで、被告人は、たとえ一〇万円でもよいから恥を忍んでよね子から借りようと考え、同年一月七日正順とともに同女方に赴いたが、その数日前の一月三日の日に、祖母から、体の不自由な父が火災で焼け死んだ際、よね子は外出中であつたが、家に鍵がかかつていたので救出できなかつたと聞かされていたうえ、一月六日にはよね子方の近隣の者から、同女が被告人の父親を冷遇し、他の男性と情事を重ねていたとか、出火の原因にも、その際よね子が家に鍵をかけて外出していたことについても、不審な点があるなどと聞かされていたので、よね子の顔を見た途端に逆上し、父親が火事で焼け死んだ際の出火の原因や当時身体の不自由な父親を残して外出し、外から家に鍵をかけていた理由について詰問し、同女と口論となつた。その後同女が一旦玄関から外に出た間に、被告人は、同行していた正順から「あんなやり方では駄目だ。もつと強く暴力に出て殴つたり、縛つたりして、逃がさないようにして自分の主張が通るように責めろ。親子の問題では警察も手を出さないから心配するな。」「俺が仲裁役をやる。」などと言われた。その後二、三十分してよね子が玄関の前まで帰つて来たので、被告人は、同女を連れて台所に行き、「情夫と組んで放火したのか。」などと同女を責め、再び口論となつたが、同女が庖丁を取り出して被告人に向かつて来たので、その顔面を殴り、庖丁を叩き落とし、逃げようとする同女の襟首をつかみ、足をかけて引き倒し、うずくまつている同女の襟首と帯を持つて四畳半の部室に引きずり込み、後手にした同女の両手を電気こたつのコードで、両足をテレビ用アンテナコードでそれぞれ縛りあげたうえ、同女の頭髪をつかんでゆさぶるようにして「どうしてそんなことをした。」と責めたが、同女がわめくので、口に腰紐及びタオルを用いて二重に猿ぐつわをかませたのち、仏壇で線香をあげて父の冥福を祈つていたところ、同女が足で戸を蹴り始めた。これに対して正順が大声で「布団をかけろ。」と命じたので、被告人は押入れの中の布団三枚を同女に投げつけるようにかけ、正順も布団三枚を持つて来て同女にかけた。その直後正順は「ちよつと用事があるから、後でまた戻る。」というようなことを言つて外出し、二時間ほどして午后四時ころ同人の弟の紀男を伴つてよね子方に帰つて来た。その間に被告人はよね子を八畳の間に移したが、同女が海老がはねるように物凄い勢いであばれるので、「静かになれ。」と言いながら押入れから布団を持ち出して同女に投げつけた。その数は一一枚ということであるが、乱雑に投げつけたので、実際に同女にかかつたのは五枚くらいである。よね子方に帰つて来た正順は、二、三十分間電話をしていたが、「下関へ売掛代金を取りに行く。」と言つて、紀男を残して立去つた。その後午后五時ころ被告人は紀男を残して食事のため外出したが、その際よね子の体にかかつている布団の隙間から中をのぞき、同女が体を横向きにし、目を開けて何か言つているのを確認した。午后七時ころ被告人が食事をすませて帰つて来ると、紀男が青い顔をしてふるえながら「やつちやつた。」と言うので、八畳の間を見ると、よね子が床の間に頭を向けて仰向けになり、頭から血を流し、着用していた割烹着がまくれ上がり、それが同女の首に巻きついた状態で死んでいた。なお、同女を縛つていたコードなどは全部ほどいてあつた。また、よね子の首には人が両手でその首を押えつけたような痕跡が残つていたほか、テーブルの上に置いてあつた一升瓶には血の塊りと同女の頭髪が付着していた。そこで被告人は、まだ助かるかも知れないと思い、よね子の胸を大きく開いて人工呼吸をしてみたが同女は生き返らなかつた。その際紀男はよね子を殺害した事実を認め、下関に行つた兄正順に連絡したうえで明日自首すると言う一方、被告人に「酒を飲みに連れて行け。」と要求し、さらに「自首する前によね子の死体を誰かに発見されるといけないから、一旦押入れに隠して、後でまたもとに戻せば良い。」と言うので、その言葉に従つて被告人が一人で死体を押入れに隠し、その折よね子の胸もとから落ちていた現金三万五〇〇〇円と台所の調理台から持ち出した二万五、〇〇〇円を持つて紀男を連れて外出し、酒を飲んで午后一一時ころよね子方に帰つて来た。その翌朝、被告人は、紀男から「騒ぎがおさまつたころ戻れるようにしておくから、一旦逃げて時を稼げ。お前はここにいなかつたことにしておけ。」と言われるままに、自動車を運転して大阪方面に向かつて逃走したというのである。

よつて被告人の右供述の信憑性について考察するのに、被告人は捜査の全過程を通じて、よね子は、被告人が同女の両手、両足を緊縛し、猿ぐつわをかませたうえ、その体の上に多数の布団をかけて放置したため死亡した旨自白しているばかりでなく、原審第一回公判における罪状認否の際も、原判示強盗殺人の事実については、殺人の犯意及び財物強取の事実を否認しているだけで、よね子を殺害したのが紀男であるとは一言も主張しておらず、また、当審公判廷においては、本件で逮捕された当時は自分がよね子を殺したと思つていた旨供述し、その理由として、警察官から「布団をかぶせたから、お前が殺したんだ。」と言われたので、そのように思つたと説明し、さらに、被告人が原審公判廷において紀男がよね子を殺害した事実を具体的に供述した根拠について、紀男が捜査官に対し被告人のことを悪しざまに供述していることを知つたことなどから、よね子は布団をかぶせられて死んだのではないという考えが起こつて来てそのように供述したと述べているのであつて、被告人が原審において紀男がよね子を殺害した旨供述した動機について当審で説明したところによると、そもそも紀男が真犯人であるとする被告人の前記供述は、自らが実際に見分したところに基づく確信を述べたものであるか否かすら疑わしいといわなければならないが、事の真相が原審第七回及び第八回公判において被告人の供述したとおりであるとするなら、その真相と被告人が捜査の全過程を通じて一貫して前記のように自白しているところ、原審第一回公判において罪状認否の際前記のように陳述しているところ及び逮捕された当時自分がよね子を殺したと思い込んでいた旨当審で説明しているところとの間の矛盾は到底理解し難いといわなければならない。

また、被告人が、原判示第一の犯行の日の午后七時三〇分ころ、よね子の死体を原判示の押入れ内に運び込み、その上に就寝用布団を積み重ねるなどしてこれを隠匿したこと及びその翌日大阪方面に逃走したことは証拠上動かし難い事実であるが、真実被告人の行為によつて同女が死亡したものではなく、その死亡が紀男の行為によるものであるとするなら、被告人が右のような行動に出る必要はないと思われるのみならず、この点について被告人は、よね子の死体を隠匿したのも、大阪方面に逃走したのも、紀男の言葉に従つたまでのことであると弁解しているけれども、被告人の弁解によると、よね子を殺害していない被告人が同女の死体を隠匿しているのに、現場にいたその犯人である筈の紀男がその手伝もしなかつたというのであり、また、犯人でもない被告人が犯人の紀男から「騒ぎがおさまつたころ戻れみようにしておくから、一旦逃げて時を稼げ。お前はここにいなかつたことにしておけ。」と言われて、急遽大阪方面に向かつて逃走したというのであつて、その弁解自体はなはだ不合理なものであるといわなければならない。

以上の諸点に加えて、三木敏行作成の昭和五一年五月二八日付鑑定書によると、よね子がその頭部の打撲や頸部の絞扼によつて死亡したものではないことが明らかであることを合わせて考えると、よね子を殺害したのは紀男であるとする被告人の原審第七回及び第八回公判における供述は、その他の証拠との対比検討をまつまでもなく、それが真実を述べているものとは到底認められない。

ところで、被告人の検察官に対する昭和五一年三月五日付、同月八日付、同月九日付、同月一〇日付各供述調書によると、被告人は、原判示強盗殺人の事実について、検察官に対しては自己の刑事責任を認めて大要次のとおり供述している。すなわち、被告人は、昭和五〇年九月ころ仕事のため北海道に渡つたが、殆ど儲けはなく、却つて債権者や警察に追われる身となり、沖縄に逃げ帰つたが、妻の実家の不動産を担保に入れて莫大な借金をしていたこともあつて、追いつめられた状態になり、同年一二月二三日には一旦自殺を考え、妻宛の遺書まで認めたけれども、もう一度生活の建直しを図ろうと思い直し、北海道にいる中村という者の持つているダイヤモンドを安く仕入れて販売する目的で、正順とともに札幌まで出かけたが、その目的を遂げることができず、金銭を殆ど使い果たして一二月三一日夜札幌を出発し、同人と二人で東京まで帰つて来た。東京まで帰つて来たものの、沖縄では妻の実家の不動産を担保に入れて月三分あるいは月四分という高利で合計三、〇〇〇万円の借金をしているうえ、札幌の仕事には失敗し、金もなくなつていたので、一層追いつめられた気持で焦つていたが、昭和五一年一月三日祖母の村田ふさの家を訪ねた際、同女から、被告人の父親が火事で死亡したときの様子について、父は寝たきりであつたが家には錠がかかつていたと聞かされて、よね子がわざと錠をかけたままにして外出し、火事が出るようにして父を殺したのではないかという疑念が湧き、父が元気で仕事をしていた当時もよね子がその邪魔ばかりしていたので、その頃からよね子を憎い奴だと思つていたが、よね子なら父を殺すようなこともやりかねないと思うに至り、同女に対する憎しみの気持が一段と強くなつて来た。かくして、被告人は前記のとおり金に困つていたので、よね子に対して被告人の父を殺したかどで告訴すると告げ、同女を困らせて二、三百万円の金を出させ、さらに同女の住んでいる上板橋の家に居すわつてしまおうと考え、同年一月七日よね子方に赴いたが、同行していた正順には右の企みは打ち明けなかつた。同日午前一一時ころと思うが正順とともによね子方を訪れたところ、同女は庭先の掃除などをしていたので、その間に同女方に下宿している学生を「俺はここの息子だが、これからお袋さんを取り調べるため警察官が来るから、どこかに行つてくれ。」といつて戸外に追い出した。しばらくしてから、よね子は台所に入つて食事の仕度を始めたので、こたつのある部室で待つていたが、そのうち同女が下宿人に食事の準備が出来たことを告げるべくその名を呼んだので、台所に行き、下宿人はいないと告げたうえ、同女に対し父が死んだ火事のことを持ち出し、更に以前被告人が住んでいた家に入ることはできないかと尋ねたが、冷たくあしらわれた。同女のその態度に腹を立て、「親爺を殺しておいてよくずうずうしくいるな。」と言つてやると、「あんたのお父さんを殺したようなものだから、あんたのすきなようにしなさい。」と答えるので、余計腹が立つて、「ふざけるな。」と怒鳴りつけ、右手を振り上げたところ、同女がびつくりして玄関の方に行こうとするので、手を出して行手をさえぎつたが、「何するのよ。」と食つてかかつてなおも玄関の方に行こうとするので、かつとなり、「何をこの野郎。」と言いながら同女の顔面を平手で一回殴りつけ、「何するのよ。」と言う同女の着物の襟をつかんでその場に引き倒し、同女が「助けて。」と大声を出したので、人に知られてはまずいと思い、うつぶせになつている同女の帯と襟首のところを持つて同女を台所の隣りの四畳半の間に引きずつて行き、同女の両手を後手にして電気こたつ用コードできつく縛り、さらに両足もテレビ用アンテナコードで縛りあげたが、同女がその間にも「やめて。」などと声を出すので、同女の着用していた腰紐を取り、これを二つ折りにして猿ぐつわをかませ、それでもなお声を出そうとするので、台所からタオルを持つて来て腰紐の上から二重に猿ぐつわをかけたが、そのとき同女がぶつぶつという感じで念仏を唱え出したので、それがまた癪にさわり、「お前なんか死んじまえ。」と申し向けながら同女の髪の毛を両手でつかみ、うつ伏せになつた同女の額の辺りを何回も畳の上に打ちつけてやつたところ、同女はぐつたりとなつてしまい、声も出さなくなつた。そのときには怒りが高まつて、既に同女を殺してしまえという気持になつていた。同女の額を畳に打ちつけるとき「お前なんか死んじまえ。」と言つたのは、本当の気持から出た言葉である。そして、こたつのある部室の押入れから布団を持ち出して、それを広げながらうつ伏せになつている同女の体の上にどんどんかけて行つた。その布団の数は六枚くらいで、全部かけ終つたときその高さは七〇センチメートルくらいになつていたように思う。同女は両手両足を縛られ、猿ぐつわをかまされ、うつ伏せになつたまま身動きができない状態であつたので、その上にどんどん布団をかければ息が出来なくなり、時間がたてばそのまま死ぬだろうと考えたが、こういうやり方で同女を殺してやろうと思つてこんなことをやつてしまつた。この段階ではよね子方を訪れた目的などはすつかり忘れてしまつていた。そのころ正順はこたつのある部室にいたが、被告人がよね子に布団をかけ終つて少したつたころ外に出て行つた。その時刻は午后一時すこし前ころではなかつたかと思う。正順が出て行つたのち暫くしているうちに金のことが頭に浮かんで来て、この機会によね子の持つている金などを取つてやろうという気を起こし、同女はまだ死んではいないだろうが抵抗できなくなつているから、今なら簡単に取ることができるし、どうせこのまま殺してしまうんだから取つたつてかまわないという気持になり、家の中を探し、最初に台所の引出し内にあつた紐つきの黄色の袋の中から一万円札二枚と一、〇〇〇円札五枚くらいを取り出し、これを直ちに自分の財布の中に入れ、また右袋の中から一、〇〇〇円のオリンピツク記念硬貨二個と一〇〇円の同硬貨二個を取り出したが、これは一旦こたつの上に置いて、その後自分の洗面具入れの中に入れ、こたつのある部室の洋服箪笥の前の鏡台の引出しから指輪を二個取り出し、これは直ちに自分の上衣のポケツトに入れ、その部室の押入れの下の段から一〇円玉約二万一、〇〇〇円の入つた袋も取り出した。このように家の中で金品を探しているとき、午后二時ころではなかつたかと思うが、よね子方に下宿している一人の学生が帰つて来たので、「お前見たことがないから、お袋さんが帰るまでは入れられない。」と追い帰したが、その学生はその時よね子を置いていた四畳半の間に下宿しているということであつたし、その前に来客もあつたりしたので、このままでは他人の目にもつきかねないと思い、よね子をこたつのある部室の隣りにある一番奥の八畳の部室に移そうと考え、四畳半の部室でよね子の体の上にかけてある布団を全部はねのけたところ、同女はうつ伏せになつたままで被告人の方を見上げてもぐもぐと口を動かしていたので、まだ生きているのかと思つた。よね子の目の辺りははれ上つており、目から涙を出していた。うつ伏せになつているよね子の足首を両手を持つて引きずり、同女を前記八畳の部室に連れて行き、その部室の大体真中辺りに置いた。そのとき同女はやつと聴き取れる言い方で「大森の小父さんと大石の小父さんを呼んでくれ。」とか、「田舎に帰る。」とか言つていた。言うことを聞くから勘弁してくれという意味だと思つたが、その願いは聞いてやらず、同女に対しあらためて「死んでしまえ。」と言うてやり、その部室の押入れの中にあつた布団を全部出し、顔を少し斜め横に向けてうつ伏せになり、両手両足を縛られ、猿ぐつわをかけられているよね子の体の上に前のときと同じように布団を一枚ずつ広げながらかけて行つた。最後の布団をかけ終つたときには布団の高さは一メートルくらいになつていた。当時その八畳の間の押入れにあつたのはマツトレス一枚、布団一一枚ということであるが、自分がかけたのはマツトレスを除いた布団一一枚である。このまま時間がたてば息ができなくなつて死ぬだろうと思つたが、四畳半の部室でよね子に布団をかけたときから同女を殺そうと思つていたので、どんどん布団をかけて行つた。布団を全部かけ終つたのは午后三時前ころではなかつたかと思うが、布団をかけ終つた後正順が弟の紀男とともに帰つて来た。その後正順は下関へ行くと言つてよね子方から出て行つた。その後被告人は食事のために外出したが、午后七時ころ帰つて来て、そこに残つていた紀男からよね子が死んでいると聞かされた。見ると、同女は前記八畳の部室で両手、両足の縛めを解かれ、猿ぐつわもはずされ、布団にもたれるように置かれていた。そのときの気持は複雑であつた。よね子を殺してやろうと思つて布団をかけ、思つていたとおりになつたのだが、実際に同女の死体を目の前にして見ると、矢張り落着いた気持ではいられなかつた。心の中でやらなければ良かつたと後悔もしたが、よね子方で探し出した不動産の権利証などで金を作つて借金を支払い、妻やその実家に顔向けができるようにしよう、それまではよね子の死体をこの家の中に隠して誰にもわからないようにしよう、借金の支払が終つたら自首して責任を取ろうと考えた。そして、よね子の死体をその部室の押入れの中に運び込み、その上に毛布などを積んで外から同女の姿が見えないようにした。翌一月八日は昼ころまで眠り、その後紀男と一旦外出して再びよね子方に帰つたが、紀男は同人が入院している病院に帰るというので、同人と同日午后六時によね子方で落ち合う約束をし、一人で自動車を運転して川越に向かつたが、その途中紀男が事件を警察に届けているのではないかという気がしてきたので、引き返して同女方の近くまで来たとき、パトカーが付近にいるのが目に入つたので、紀男が事件を警察に届け出たと感じ、そのまま逃走したというのである。

そこで被告人の検察官に対する右供述の信憑性について検討するのに、被告人は、原審法廷において、取調に当つた検察官が被告人に対して警察から送られて来た供述調書の山を見せ、これだけ証拠が集まつているのだからお前を有罪に持つていけるが、争つてみるかと申し向けるなどしたため、被告人は検察官の右言辞に気圧されてその取調に対し真実が供述できなかつたものであると主張しているが、被告人の検察官に対する前記各供述調書には、本来第三者の知り得ない被告人の内心の動き、例えばよね子の死を知つたときの被告人の他人では到底語り得ない微妙な心理状態や紀男の捜査官に対する供述内容に対する反駁が詳細に録取されているばかりでなく、被告人は、本件強盗殺人の事件について、昭和五一年三月五日から同月一〇日までの間に四回にわたつて検察官から供述を録取されているのであるが、その最初の三月五日付供述調書の冒頭には、「逮捕された直後のころには気持も動揺していたし、よね子を殺した罪責の重さを考えてこわくなつたりしたため、いくらかでも自分の都合の良いようになればと思つて事実と違うことを話してしまつたが、その後自分のやつたことの意味を考えたり、よね子に対してすまないという気持が出て来たりして、全部正直に話して刑に服することが同女の霊をとむらう一番良い方法だと思うようになり、これまでの自分の至らない人生をこの機会に全部清算すべきであると考えるようになつた。そうした気持になつてからのち警察や検察庁で述べて来たことや、今日これから調書にしてもらうことについては一切嘘はない。との趣旨の記載があり、また前記一連の検察官調書の最後の調書である同月一〇日付供述調書の末尾には、「これで君の取調を終えることになるが、何か述べておくことはないか。」との質問に対して、「これまですべて偽りのない気持を話し、調書にしてもらつているので、何もありません。」との答が記載されているのであつて、以上によると、被告人は、検察官に対して、自己の行為に対する真面目な反省に基づいて記憶するとおりの事実を卒直に供述したものと認められる。

そして、被告人の司法警察員に対する昭和五一年二月一九日付、同月二三日付、同月二四日付、同月二五日付、同月二六日付、同月二九日付、同年三月一日付(二通)、同月二日付及び同月六日付各供述調書によると、被告人は、警察官に対して、昭和五一年二月一九日取調の際には、正順が共犯者であり、被告人がよね子に布団をかけるのを正順も手伝つたと供述していたけれども、その後同月二三日以後は一貫して被告人が単独でよね子を殺害し、その間に同女所有の金品を奪取した旨検察官に対するのと同旨の供述をしていることが明らかである。尤も、被告人は、原審法廷において、被告人の司法警察員に対する前記各供述調書は、警察官が、言いたいことがあれば法廷で言えと言つて被告人の述べるところは調書に記載せず、正順や紀男の供述に基づいて勝手に作成したものであると供述しているけれども、被告人の取調に当たつた警察官の菊嶋正は、原審において、右各調書は被告人の供述するように警察官が勝手に作成したものではなく、被告人は、本件強盗殺人の容疑で逮捕された翌日の昭和五一年二月一九日には、正順及び紀男と三人でやつた犯行であると弁解したり、あるいは正順が共犯者で、被告人が被害者に布団をかけるのを正順が手伝つているなどと供述していたが、同月二一日に、菊嶋が、被告人に対して、人間には生来善悪の区別はない、良心に立ち返つて本当の話をしてくれと説得したところ、被告人が涙を流して「本当に悪かつた。正順が共犯者だと言つたが、同人は共犯者ではない。」と述べ、自ら同日付の上申書を作成し、同月二三日以後一貫して自己がよね子を殺害した旨供述したもので、被告人の司法警察員に対する前記各供述調書は被告人の供述をありのままに録取したものであると証言しているところ、被告人の司法警察員に対する昭和五一年二月一九日付弁解録取書及び供述調書には、名嘉紀男の供述とは全く相容れない被告人の弁解ないし供述が録取されていることや、被告人が作成した昭和五一年二月二一日付板橋警察署長宛上申書には、被告人が一人でよね子を殺害した旨の記載があること、また、被告人の司法警察員に対する昭和五一年二月二五日付並びに同月二九日付各供述調書には、被告人が自ら本件強盗殺人の犯行当時の自己の行動について説明した詳細な図面が添付されていること及び司法警察員作成の昭和五一年三月九日付検証調書によると、被告人が、同月四日、よね子方において、警察官に対し、犯行当日よね子方を訪れたのち、同女を殺害し、同女の死体を隠し、金品を奪つた自己の行動をわざわざ再現して見せていることなどの諸事実に徴すると、被告人の司法警察員に対する前記各供述調書は、被告人が主張するように、取調警察官が被告人の供述に基づかないで正順や紀男の供述によつて勝手に作成したものではなく、証人菊嶋正の証言するとおり、被告人の供述の要旨をそのまま録取したものと認めることができる。

以上検討の諸点のほか、被告人の検察官に対する前記供述が具体的かつ詳細で、名嘉正順の原審証言及び後記名嘉紀男の原審証言とも大筋において符合し、関係証拠によつて認められる事件現場の状況やよね子の死体解剖の結果にも合致していることを合わせて考えると、その供述は十分信用するに足りるものということができる。

ところで、被告人が原審公判廷においてよね子殺害の真犯人であると主張した名嘉紀男は、原審において、自己の本件強盗殺人事件とのかかわりについて大要次のとおり証言している。すなわち、同人は、昭和四八年二月から多摩全生園で病気療養中であるが、昭和五一年一月五日夕刻兄の正順から電話があり、後楽園のサトウホテルにいるが、金の都合がつかないかということであつたので、手元にあつた四万円程を持つて病院から外出し、兄正順にその金を渡し、その晩は兄正順とともにサトウホテルに泊つた。同ホテルで初めて被告人に逢つたが、被告人は「お袋が親爺を殺したから訴える。」と話していた。翌六日は午前一〇時ころ同ホテルを出て、午后三時か四時ころ被告人及び兄正順とともに上板橋の被告人の実家を訪ね、三〇分か一時間同所にいたが、被告人もよね子もお互いに愛想よく応待していた。その晩被告人と兄正順とは上板橋の駅の近くのミドリ荘という旅館に泊り、自分は病院に帰つた。翌七日午后二時ころ兄正順から病院に電話がかかつて来て出てこないかということであつたので、二万円位の現金を持つて病院を出、午后三時半ころ上板橋駅近くの喫茶店で兄正順に逢い、同所で一万七、八千円くらいを兄に遣り、時刻についてははつきりしない点もあるが、本件午后五時ころ兄正順とともに被告人の実家に行つて、玄関のすぐ傍の部室のこたつに入つた。そのこたつの上には通帳等の書類が置いてあつたが、その後被告人が何処からか一〇円硬貨の一杯入つた袋を持つて来てその上に置いた。被告人の実家に行つて三〇分程して兄正順は「下関へ集金に行つてくる。明日昼過ぎに帰つて来る。」と外に出たが、その際兄から被告人と一緒にいてやれと言われたのでその場に残つた。兄正順が外に出た後を追うようにして被告人も食事のため外出した。被告人は「お袋は隣りの部室で縛つて布団をかけてある。」と言つていたが、よね子を縛りあげる必要はないと思い、縛めを解いてやる考えでその部室に入つてみたところ、敷布団、掛け布団、マツトレス等が一メートル以上の高さに山積みにされていて、その周りを回つてみても手も足も出ておらず、布団の端を上げてみても人の姿は見えず、手を差入れてみたところ手に触つた人の体が凄く熱かつたので、急いで布団をはがすと、よね子が、殆どうつ伏せの状態で顔をやや横に向け、口には二重に猿ぐつわをされ、両手は後手にされてコードで縛られ、両足首もアンテナ用コードで縛られていたので、その緊縛を解き、同女の体が熱かつたので生き返ると思い、両頬を叩いて人工呼吸をしてみたけれども、前日見たときとは形相が違い、呼吸もせず、猿ぐつわをはずしても顔の形が元に戻らないので、死んでいると思い、被告人の帰つてくるのを待つていた。午后七時ころ被告人が帰つて来たので、「ばあさん死んでいるよ。あれくらい布団をかぶせれば死ぬのが当り前じやないか。」と言つてやつたが、被告人は格別驚いた風も見せず、その後「どうせやる気でやつたんだ。」とか、戸籍謄本や不動産関係の書類を見ながら、「さんざん悪いことをしたんだから、死んで当り前だ。」などと放言していた。被告人は同夜八時から九時ころの間に前記布団を片付けていたが、その後死体は押入れの中に入れたと話していた。同夜九時ころ被告人がどこかに出ようというので一緒に外出し、酒を飲んで午后一二時ころ帰つて来たが、殆ど眠れなかつた。翌八日朝八時ころ台所の隣りの部室で被告人から「ここで最初やつたんだ。洩れてる跡がわかるか。」と言われたので、見ると畳の上に小便の染みのような跡があつた。被告人は「大分殴つた。それで『殺して』というから、殺してやつたんだ。」とも話していた。その後二人で食事に外出し、午后一時か二時ころ再びよね子方に戻つたが、兄正順から電話がかかつて来たので、被告人に気づかれないように、被告人が台所に行つている間に、「何で俺がこんな目にあわなきやいけないんだ。殺人事件に巻き込まれたんだぞ。」と訴えると、「すぐ近くの喫茶店に行つて、もつとくわしく電話しろ。」という返事であつたので、一緒について来ようとする被告人から逃げるようにして近くの喫茶店に行き、電話で兄正順にくわしく話したところ、「すぐ近くの交番に行くんだ。」と言われたので、交番に赴くべく契茶店を出たが、交番に行く途中でパトカーに出会い、警察官に一部始終を話したが、その時刻は午后三時すぎであつたというのである。

そこで紀男の右証言の信憑性について検討すべきところ、所論も指摘しているように、右証言にあらわれた同人の行動には他人に不審の念を起こさせるような筋が一部に存在することは否定できない。しかし、同人は、それらの点について、よね子の死体を発見したとき直ちに警察へ連絡しなかつたのは、被告人が兄正順の友人なので、自首させるのが良いと考えたからである。また、一月七日の夜よね子方の下宿人が帰つて来たとき、家の中に入れないで追払つた事実があるが、これは被告人が食事から帰つて来た直後であつたので、他人のいないところで被告人に自首するよう説得する考えでしたことであると証言しているのであつて、前記不審は右説明によつて一応払拭するに足りるというべきである。 ところで、所論は、紀男は、本件強盗殺人の犯行につき被告人の仲間であると評価断定される可能性のある立場にあつたもので、意識的、無意識的によね子の死亡は被告人単独の行為によるものであるとの方向で事件を見、かつそのように証言したものであつて、その過程で事実の歪曲や欠落等が生じているばかりでなく、紀男は被告人に対して悪感情を抱いている者であると主張して、その証言の信憑性を争つているが、紀男の原審証言には、特に同人が事実を歪曲して述べているとか不自然、不合理と思われる箇所はなく、その証言内容は、たまたま訪れた他人の家で、手足を緊縛され、猿ぐつわをはめられたよね子の死体を最初に発見するという異常な経験をした者の証言として迫真性を有し、名嘉正順の原審証言及び被告人の検察官に対する前記各供述調書の記載とも大筋において符合し、関係証拠によつて認められるよね子の死体の状況や現場の状況とも矛盾する点はなく、紀男自身が認めているようにその証言する時間の点に不確かな面のあること及びその証言中よね子の体の上に布団のほかマツトレスもかけられていたとの趣旨の部分は、たやすく措信できないと考えられることを別にすれば、自己の関係した範囲で事柄の経過を述べた部分の大綱は十分信用するに値するものということができる。

なお、所論は、紀男の前記証言は、司法警察員作成の検視調書及び東京都監察医作成の死体検案調書の記載によつて窺うことのできる紀男の捜査官に対する事件申告の内容に照らして措信し難い旨主張しているが、右検視調書には紀男による申告の要旨として「山里こと村田勝美が義母の手足をしばつて布団をかけていたので、見たら死亡していた」と記載してあつて、その記載に紀男の原審証言と齟齬する点は少しも存しない。また、右検視調書と前記死体検案調書にはよね子の死亡日時を昭和五一年一月七日午后三時三〇分ころと記載しているけれども、右日時の記載が紀男の申告のみに基づくものであるか否か明確ではないが、仮にその申告のみに基づいて右のように記載しているとしても、よね子の死体を発見した時刻についての前記証言と同旨の紀男の申告に基づいて、警察官や監察医が同女の死亡時刻について前記のように推定し、その時刻を前記各書面に記載したことも十分考えられるから、同女の死亡日時に関する前記各書面の記載は必ずしも紀男の原審証言と相容れないものではない。さらに、右死体検案調書の「死亡前後の状況及び検案所見に対する考察」欄に、「前日より本屍の義理の息子がうろうろしており、名嘉の立入りをこばんでいた由」との記載があることは所論の指摘するとおりであるけれども、同欄には紀男がよね子の縁者である旨記載されているが、かかることは紀男が申告する筈もないと思われることに徴しても、所論指摘の前記記載が監察医において紀男から直接よね子の死亡した前後の状況を聴取した結果を正確に記載したものであるとは認められないから、その記載の故に紀男の原審証言の信憑性に疑問が生ずることにはならない。

以上のほか、所論は、紀男の捜査官に対する各供述調書の記載内容を援用して、同人の原審証言の信憑性を争つているが、右各供述調書は証拠として取り調べられていないから、右主張は証拠に基づかない不適法なものといわなければならない。

以上本件における最も主要な人物の供述証拠について検討して来たところを前提として、まずよね子の死亡が被告人の行為によるものであるか否かを検討するのに、被告人の検察官に対する前記各供述調書及び名嘉紀男の原審証言並びにこれらを補足補強する名嘉正順の原審証言及び三木敏行作成の昭和五一年五月二八日付鑑定書など原判決の挙示する証拠によると、よね子が被告人の原判示の所為によつて死亡した旨の原判決の事実認定は優にこれを肯認することができる。なお、三木敏行が、よね子の手足の損傷に関する右鑑定書の記載について、当審で証言した内容は、弁護人が当審最終弁論で主張しているように右判断と相容れない趣旨のものとは解されない。

これに対して所論は、よね子の死体解剖の結果明らかになつたその胃中の餅の消化状態からみて、被告人の原判示の行為によつて同女が死亡したものでないことは明らかであると主張しているので、その点について考察するに、三木敏行作成の前記鑑定書によると、よね子の死体を解剖した結果、その胃の内容が二七〇竓あり、大部分は塊状の餅で、その他に食物残渣はなかつかこと及び被告人の検察官に対する前記供述によつても、被告人が昭和五一年一月七日よね子方台所で同女に暴行を加え始めた時点から、同日午后五時ころ被告人が食事のため外出するまでの間に、同女に餅を食べる機会のなかつたことはいずれも所論の指摘するとおりである。

ところで、当審において証人三木敏行は、前記よね子の胃の内容物の状態からすると、一般的には同女が死亡前二、三時間以内に餅を食べたと考えられる旨証言し、また、当審において取り調べた木村康作成の昭和五三年六月二五日付鑑定書中には、よね子の胃の中の餅の消化状態から、同女は食後一時間前後で死亡したと考えるのが妥当である旨の記載があり、さらに、木村康は、当審において、一番長くみてもよね子は食後二時間以内に死亡したものと見るのが妥当である旨証言している。

そこで、まずよね子が、餅を食べたと考えられる時刻について考察してみると、被告人の検察官に対する昭和五一年三月五日付供述調書によると、被告人が前記のようによね子に対して最初にその顔面を殴打する暴行を加えた直前ころ、同女が下宿人のために食事を用意していた事実が認められるので、時期が正月初めのことでもあるからそのころ同女が餅を食べた可能性があることは否定できない。そして、その時刻は、よね子に暴行を加え始めた時刻について、被告人が右供述調書において午后零時半ころと述べていること及び被告人がよね子に対して暴行を加え始める前に被告人の要求によつて同女方から外出した下宿人の加藤秀行が、司法警察員に対し、寝ているところを被告人に起こされた時刻を正午ころと供述していることなどを考え合わせると、ほぼ午后零時三〇分ころと推認することができる。

次によね子の死亡時刻について考察するのに、被告人は、前記検察官調書において、午后二時ころ下宿人の学生が帰つて来た直後によね子を原判示の八畳の間に移し、同所で同女の体の上に布団をかけたが、それが終つたのが午后三時ころであつたと供述しているが、右下宿人である渡辺孝充は、司法警察員に対して、よね子方に帰つて来たが中に入れてもらえなかつた時刻を午后一時半ころと供述していること及び原判示四畳半の部室から八畳の部室によね子を移し、同女の体の上に布団一一枚をかけるのに一時間を要するとは考えられないことなどを総合すると、遅くとも午后二時半ころには被告人は原判示八畳の間でよね子の体の上に一一枚の布団をかけ終つたものと認められる。従つて、よね子は被告人が右一一枚の布団をかけ終つた午后二時三〇分ころから紀男が同女の死を発見した午后五時三〇分ころまでの間のいずれかの時点において死亡したものと認められる。

従つて、よね子が考えられる最も早い時点、すなわち午后二時三〇分ころ死亡した場合を想定すると、同女の胃中の餅の消化状態は同女の死亡が被告人の原判示の行為によるものであるとすることと矛盾しないし、同女が考えられる最も遅い時点、すなわち午后五時三〇分ころ死亡した場合を想定しても、当審において証人三木敏行が、胃中の食物の消化に要する時間は、その者の精神状態、肉体状態、個人差などによつて非常に相違し、よね子の胃の内容物の状態から同女が食後五時間とか六時間を、経過して死亡した可能性も絶対にないとはいえない旨証言していること及び当審における証人木村康の証言によると、同証人も一切の例外を認めない趣旨で前記のように鑑定ないし証言しているものではないと認められることなどに照らして考えると、よね子の胃中の餅の消化状態は同女が被告人の原判示の行為によつて死亡したと認定することを必ずしも相容れないものではない。

また、所論は、原判決は、被告人の原判示の行為によつてよね子が酸素欠亡状態に陥り、その結果窒息死した旨認定判示しているとし、これを前提として同女の死亡が被告人の行為によるものではない旨主張しているが、原判決は、被告人が、よね子の両手足を緊縛し、二重に猿ぐつわをかませたうえ、うつ伏せになつた同女の体の上に就寝用布団一一枚を順次積み重ね、そのまま放置した結果同女を遷延性窒息により死亡させたと認定判示しているけれども、被告人の右行為により同女が如何なる経過を辿つて窒息に至つたかについては何ら認定判示していないのである。そして、右の点について判示していなくても、罪となるべき事実の判示として欠けるところがないことはさきに説示したとおりであるが、原判決が証拠として挙示している三木敏行作成の昭和五一年五月二八日付鑑定書によると、死因の究明につき十分な専門的知識と経験を有するものと認められる同人が、よね子の死因は窒息と推定されるとし、その窒息は鼻口部の閉塞によると考えるのが妥当であるとしているものの、鼻口部閉塞以外の原因に基づく窒息の可能性を否定してはいない事実に徴すると、よね子が如何なる経過を辿つて窒息に至つたかについて原判決が断定的に認定判示することを避けたのは、証拠上も慎重な措置として十分首肯することができる。従つて、原判決がよね子の窒息は酸素欠乏の結果であると認定判示している旨主張し、これに基づいてその事実認定を論難する所論は、立論の前提を欠くものといわなければならない。

ところで、所論は、被告人の行為はよね子を死亡させるに足りるものではなかつたと主張し、被告人の行為によつて同女が死亡した事実を争つているので検討するのに、司法警察員作成の昭和五一年三月九日付検証調書添付の写真三六及び三七は、よね子方で同女の体の上に布団一一枚を積み重ねた状況を被告人が再現して見せた際、その状況を撮影したものであるが、被告人が検察官に対してよね子の体の上に布団一一枚を積み重ねた状況について供述しているところや、紀男がその状況について原審で証言しているところを総合すると、その状況は決して所論のいうようによね子の体の上に五、六枚程度の布団がかかつていたというようなものではなく、正に右各写真が示すように、布団一一枚が同女の体の上にうずたかく積み重ねられている状態であつたと認められる。

そして、よね子は、原判示の第一の犯行の日の午后零時三〇分ころ、同女方台所で、被告人に顔面を殴打され、襟首をつかんで引き倒されたうえ、原判示四畳半の間に引きずり込まれ、電気こたつ用コードで両手を後手に緊縛され、テレビ用アンテナコードで両足の足首を縛りあげられたうえ、腰紐とタオルで二重に猿ぐつわをかけられ、頭髪をつかまれて顔面を何度も畳に打ちつけられた挙句、うつ伏せになつた体の上に布団六枚をかけられて午后二時ころまで放置され、引き続き原判示八畳の間に移され、前記の如く手足を緊縛され二重に猿ぐつわをかけられた状態のまま、うつ伏せになつている体の上に再び布団一一枚を積み重ねられて放置されたものであつて、司法警察員作成の昭和五一年一月一四日付検証調書(不同意部分を除く)によると、前記四畳半の間にも八畳の間にもよね子が失禁したものと認められる痕跡のあつたことを考え合わせると、八畳の間で布団をかけられた時点においては、既に年齢も五十に達し、当然体力も漸次衰えつつある同女は、長時間に及ぶ被告人の暴行で疲労困憊の極に達し、前記のように厳重に身体の自由を拘束されていることもあつて、一一枚の布団の重圧下に身動きもできなかつたと考えるのが自然であつて、そうした状態を前提にすれば、同女が一一枚の布団の下で鼻口部の閉塞状態に陥り、窒息死に至る場合のあることは当審における木村康の証言によつても肯認できるから、被告人の原判示の所為は優によね子を殺害するに足りるものであつたということができる。

なお、当審においてよね子の死因につき鑑定した木村康は、同女の肺の組織学的検査を実施した結果に基づき、同女の死因は鼻口部閉塞による窒息死であり、他の原因による窒息死は考えられない旨証言しているのであるが、同鑑定人が作成した昭和五三年六月二五日付鑑定書には、本件現場の状況からすると、単によね子の体の上に順次布団を積み重ねて放置しただけでは鼻口部閉塞による窒息は生じないかの如き誤解を生じるおそれのある記載があるが、右記載に関して同人が当審において証人として説明したところによると、右鑑定書の記載は必ずしも前記判断と相容れないものではないことが明らかである。

次に、所論に鑑み原判決の殺意の認定が肯認できるか否かについて考察するのに、所論は、被告人にはよね子を殺害する動機がなかつた旨主張しているのであるが、原判決が証拠として挙示している被告人の検察官に対する前記各供述調書によると、被告人は、検察官に対して、同女に対する殺意の形成につき、昭和五一年一月七日被告人がよね子方を訪れ、父親が焼死したときの状況やその遺産などについて同女を詰問したところ、同女に冷たくあしらわれたり、くつてかかられたりしたのでこれに憤激し、同女の顔面を平手で殴打し、襟首をつかんで引き倒し、同女を原判示四畳半の間に引きずり込んでその両手両足を緊縛し、二重に猿ぐつわをかけ、さらに頭髪を両手でつかんでうつ伏せになつた同女の顔面を何度も畳の上に打ちつけるなどの暴行を加えるうち、怒りの感情がますます高まり、遂に同女を殺してしまえという気持になつた旨供述しているのである。

ところで、殺意の形成に関する被告人の右供述をそのまま措信するのが正しいか否かを判断するためには、被告人の原判示第一の犯行に至るまでの生活やその犯行当時の心情について十分な理解を必要とするか、右の点について、被告人の司法警察員に対する昭和五一年二月二二日付、同月二三日付、検察官に対する同年三月五日付、同月八日付、同月九日付各供述調書、山里朝子の司法警察員に対する供述調書、名嘉正順の原審公判廷における証言、原審裁判所の証人村田ふさ、互かやに対する各尋問調書及び東京都品川区長作成の戸籍謄本二通などによると、次のような事実が認められる。すなわち、被告人は、昭和三六年初ころ親の反対を押しきつて佐藤弘子と同棲を始め、その後同女と結婚し、同女との間に一子まで儲けたのに、昭和三八年末ころ借金の支払に窮するや、妻子を捨てて大阪に逃亡し、その後大阪で知り合つた野崎芙美子と昭和四二年三月ころ結婚し、同女との間にも一子を儲けたが、昭和四五年ころ二十歳も年長の綱島良江と情交関係を結び、同女と同棲を始め、昭和四七年二月には妻芙美子に相談もしないで離婚の届出をするとともに、綱島良江と養子縁組の届出をして綱島姓となつた。しかし、昭和四八年五月に原判示第四、第五の有印公文書偽造などの罪で逮捕勾留され、引き続いて起訴されたことなどが原因となつて、同年七月には同女と離縁した。そして、右事件について綱島良江に保証金を出して貰つて保釈出所するや、保釈中の身であつたにもかかわらず、大阪に逃走し、さらに同年八月ころ、前妻の野崎芙美子に対してすぐ迎えに来るからと約束して一〇万円を用立てて貰い、沖縄まで逃走した。沖縄に渡つてからは、那覇市内の建設会社飯場に住み込み、大工として働いていたが、昭和四九年一月ころ同市内で店舗デザインの事務所を開き、同年四月同事務所の事務員として採用した山里朝子と知り合い、暫く交際したのち同女と同棲を始め、昭和五〇年一月ころ同女と結婚して山里姓となつた。そして、そのころ同女の実家の家屋敷を担保に入れて合計三、〇〇〇万円に及ぶ借金をし、これを資金にして会社経営に乗り出したが、同年二、三月ころには早くも行き詰つてしまい、その後仲間とともに北海道に赴き、家庭用雑貨品の取込詐欺を敢行したのち、同年一一月末ころ那覇市に逃げ帰つたが、前記多額の借金について、その利息の支払すら滞つている状態であつたため、債権者から強硬に返済を要求されていたばかりでなく、山里の義母からも、その家屋敷を担保にしていた関係から、毎日のようにその支払を催促され、追いつめられて自殺を考え、同年一二月二三日には妻朝子宛の遺書まで認めたが、札幌に居住する知人の紹介でダイヤモンドを安く仕入れて何とか生活を建直そうと考え、知り合いの名嘉正順に金儲けができると持ちかけ、同人とともに金主を探し、正順に旅費四〇万円を作らせ、自らは妻から二万円を貰い受け、出資者の代理人である中村稔を伴い、同年一二月二五日名嘉正順とともに那覇空港を出発して札幌に向かつた。しかし、期待していたダイヤモンドの取引はできず、同月二八日には中村稔は話が違うと札幌から引き揚げてしまい、同月三一日に至つて所持金も乏しくなつたので、正順に対して、東京に行けば友人もおり所持している手形も割引けるから東京に行こうと誘い、同人もこれに同意し、沖縄までの復路の航空切符の払戻しを受けて八万円の現金を作り、これを二人の旅費にして札幌を出発し、昭和五一年一月一日上野駅に到着した。東京に到着したのち、被告人は、原判示第一の犯行の日の同年一月七日によね子方を訪れるまでの間、同月三日同女方で一泊した以外はホテルや旅館に宿泊していたが、その間よね子から金員を借用したいと考えていたものの、同女に対してその話を切り出すことができず、所持していた手形はもともと取込詐欺の仲間から入手した信用のないもので、手形割引業者に呈示してみたが割引を拒絶され、新聞の求人広告で知つた会社に履歴書を提出してみたが採用してもらえず、その間妻の朝子に電話して、働くところが決まつたからその仕度に金がいるなどと嘘を言つて、二回にわたつて一万円ずつ送金してもらつたが、一月七日よね子方を訪れたときにはその所持金も僅か二、三千円しかないという状態であつた。なお、被告人は、継母のよね子に対しては以前から好感情を抱いていなかつたが、昭和五一年一月三日に祖母や叔母から、父卯吉が火事で焼死した際の状況について、当時よね子は外出していたが、家に鍵がかかつていたため救出することができなかつたと聞かされて、あるいは同女が父を殺したのではないかと不審の念を募らせ、同女に対する憎悪の感情を増幅させていたことが明らかである。

そして、右の諸事実によると、被告人は、昭和五一年一月七日よね子方を訪れた当時、経済的にも精神的にも追いつめられた状態にあつたことが明らかであるとともに、以上のような被告人の長年にわたる無責任かつ乱脈な生活歴からは、その心情が著しく荒廃していたことを窺うに十分であつて、被告人の右のような経済的、精神的状態を前提にして考察すれば、被告人がよね子に対して度の過ぎた暴行に及び、その暴行中怒りの感情がますます高まつて遂に同女の殺害を決意するに至つた旨の被告人の検察官に対する前記供述は、不自然、不合理とは考えられず十分信用できる。従つて、被告人にはよね子を殺害するに足りる動機があつたといわなければならなぃ。

尤も、所論が指摘するように、被告人の司法警察員に対する供述調書中には、被告人がよね子の体の上に布団をかけて放置したのは、同女が逃亡したりその声が外部に洩れたりするのを防止するためであつたとの供述記載があるが、被告人は同女に対して暴行を加える前に同女方に下宿していた学生を同女方から追い出し、他人が訪ねて来ても中には入れないよう配慮していたうえ、同女は両手両足を緊縛されて全く行動の自由を失い、二重に猿ぐつわをかけられて大声などは出せない状態にあつたのであるから、同女が逃亡したりその声が外に洩れたりするのを防ぐために同女の体の上に多数の布団をかける必要は少しもないのであつて、うつ伏せになつた同女の体の上に原判示の四畳半の間では六枚、八畳の間では一一枚もの多数の布団を積み重ねてこれを放置した被告人の行為が、単に同女が逃亡したりその声が外部に洩れたりするのを防ぐためになされたなどと考えるのは合理的でなく、被告人の司法警察員に対する供述調書中の前記記載部分は、被告人の検察官に対する前記殺意の形成に関する供述の信憑性を左右するに足りるものではない。

以上説示したとおり被告人にはよね子に対する殺意を形成するに足りる動機があつたことに加えて、さきに詳説したように被告人の原判示の行為がよね子を窒息死させるに足りるものであつたこと及び名嘉紀男の原審証言によつて明らかなように、同人からよね子の死亡を告げられた被告人が、「どうせやる気でやつたんだ。」などと放言していることの諸事実を総合すれば、殺意について原判決の認定しているところはこれを肯認することができる。

そればかりでなく、所論は、殺意を否定する主張に関連させて、被告人のよね子に対する最初の暴行は、同女の理不尽な態度に誘発されたものであると主張しているが、被告人の検察官に対する前記各供述調書や名嘉正順の原審証言によると、被告人がよね子に暴行を加える直前の同女の態度が、被告人の暴行を招いて余りある理不尽なものであつたとの所論は、到底首肯できない。

そして、中島スエ子の司法警察員に対する供述調書によると、よね子は、昭和五一年一月七日午前一一時一五分ころ、従つて、関係証拠によつて被告人が名嘉正順とともに同女方を訪れた直後と推認される時刻に、近隣の中島スエ子方を訪れ、同人方から日ごろ信仰している日蓮宗の寺院に「昨日もお話ししましたように今日も息子が一人の男を連れて来ている。何事も起こらないようにお祈りして下さい。」と電話している事実が認められるのであつて、右事実によると、同日村田よね子方を訪れた被告人の態度には、同女をして被告人から何らかの危害を加えられるのではないかとの不安を抱かせるようなものがあつたと推認できるばかりでなく、被告人がよね子に対して手荒な行動に出る考えが全くなかつたとすれば、同女方の下宿人を事前に追い出すような行動をとる必要はないと思われるのに、被告人の司法警察員に対する昭和五一年二月二四日付供述調書及び加藤秀行の司法警察員に対する供述調書二通によると、被告人はよね子に対して暴行を始める前に、寝ていた下宿人の枕を足蹴りにしてこれを起こし、わざわざ嘘を言つて同女方から追い出しているのであつて、他家の下宿人を起こす際枕を足蹴りにするという粗暴極まる行動をとつていることも、当時の被告人の心情の一端を示すものとして決して看過することができない事実といわなければならず、以上の諸事実に照らすと、むしろ被告人は、犯行当日よね子方を訪れた当初から、少なくとも未必的には同女に対して粗暴な行動に出る意図を予め有していたのではないかとすら疑われるのである。

また、所論は、被告人がよね子の手足を緊縛したり、同女の体の上に布団をかけたりしたのは、同女をして被告人の父親が死亡した状況を説明させ、その遺産の分割について同女と話し合うため、同女を反省させる目的であつたと主張して殺意を否認しているけれども、所論のような目的を有する者が、相手に対して回復し難い恐怖と憎悪の感情を植えつけるような強烈残忍な暴行を長時間にわたつて加えることは不合理であり、被告人のよね子に対する原判示の暴行の態様から見て右主張は首肯できない。

さらに、所論は、被告人は、よね子に対して暴行を加えても、名嘉兄弟、特に正順が被告人とよね子との間を仲裁してくれるものと信じていたし、そのように信ずるに足りる事情が存在していた旨主張して殺意を否認しているが、被告人の検察官に対する前記各供述調書並びに正順及び紀男の原審証言によれば、被告人が右主張のように信じていた事実も、そのように信ずるに足りる事情のあつた事実も全く窺うに足りない。そして、もし所論がいうような事実が存在したとするなら、正順が、被告人においてよね子に対して暴行を始めて余り時間が経過していないときに、現場を離れて同女方から外出したり、その後弟の紀男を伴つて同女方に帰つて来たものの、間もなく下関に向かつて立去るなどの行動をとる筈がなく、被告人としても正順がそのような行動をとることを許容する筈がないと思われることに照らしても、上記判断につき疑う余地はない。

また、所論は、被告人に殺意があつたとするなら、よね子を扼殺あるいは絞殺すれば良いのに、それをしないで、死の不確定な布団蒸しの方法を選択したというのは常識的でない旨主張して殺意を否認しているけれども、被告人の行なつた原判示の所為は、さきに説示したとおりよね子を殺害するに足りる行為であり、他人を殺害しようと決意した者の殺害方法の選択は、事柄の成行き現場の状況、犯人の性格、精神状態、犯行の動機及び目的などによつて必ずしも一様ではなく、殺意のある者が常に最も短時間内に相手を確実に死に至すより直接的な殺害方法を選択するとは限らないから、右主張は首肯し難い。

なお、所論は、名嘉紀男の原審証言などによると、被告人が原判示八畳の間でよね子の体の上に布団をかけたのち午后五時ころ食事のため外出する際、後に残つた紀男に対し「ばばあを逃がすな。」と申し向けていると主張し、右の事実を被告人の殺意を否定する一論拠としているかの如くであるが、右事実は、被告人が右時点において未だよね子が死に到達したことを認識していなかつた事実を示すにとどまるものであつて、所論のいわゆる布団蒸しの場合は一般に死の結果が発生するまでに若干の時間を要すると考えられていることに照らすと、右の事実は原判決が被告人に殺意の存在したことを肯定していることと必ずしも相容れないものではない。

次に、所論に基づいて原判決の金品強取の事実認定が肯認できるか否かについて検討するのに、所論は、原判決が被告人において強取したと認定する現金のうちオリンピツク記念硬貨及び袋に入つた多数の一〇円硬貨については、占有移転の事実すら存在しない旨主張しているのであるが、原判決が挙示している被告人の検察官に対する昭和五一年三月八日付、司法警察員に対する同年二月二五日付、同月二六日付各供述調書、名嘉紀男の原審証言及び司法警察員作成の昭和五一年三月九日付検証調書(不同意部分を除く)などによると、被告人は、原判示の四畳半の間でよね子の体の上に布団を積み重ねたのち、同女方を捜し回り、所論指摘のオリンピツク記念硬貨については、台所の引き出しの中にあつた紐つきの黄色の袋の中からこれを取り出し、一旦これを仏壇のある部室のこたつの上に置いたが、その後これを自己の携帯していたアタツシユケースの中に入れたこと、また袋に入つた多数の一〇円硬貨については、仏壇のある部室の押入れの下の段から取り出し、これも一旦その部室のこたつの上に置いたが、その後大阪方面に逃走する際これを携帯したことが明らかであつて、被告人が右各現金を取り出した当時よね子が完全に反抗を抑圧された状況にあつたことを考え合わせると、遅くとも被告人が右各金員を取り出して前記こたつの上に置いた時点においては、被告人は右各金員に対する排他的支配を得たものと看るのが相当である。そして、その後被告人が夕食のため外出する際右各金員を持参しなかつたとの所論指摘の事実は、その当時もよね子の反抗不能の状態が依然として継続していた事実を考え合わせれば、右判断に何ら影響を及ぼすものではない。

また、所論は、原判示の財物強取の点につき、不法領得の意思の存在を争つているのであるが、前記各証拠によると、被告人は原判示の四畳半の間でよね子の体の上に布団六枚を積み重ねて完全にその反抗を抑圧したのち、同女方を捜し回り、例えば、台所の引き出し内の紐のついた黄色の袋の中から一万円札二枚と一、〇〇〇円札五枚くらいを取り出し、これを直ちに自己の財布の中に入れ、その日の夕刻外出して食事をした際、その代金を右金員で支払つていること及び仏壇のある部室の鏡台の中から原判示の指輪二個を取り出し、これを直ちに自己の上衣の内ポケツトに入れ、その日の夜外出してバーで飲酒した際、ホステスにこれを示して「沖縄の方に行けば安く買える。」などと話していることなどが明らかであつて、右の諸事実に照らせば被告人の行為が不法領得の意思に基づくものであることは明らかであつて、その行為を所論のいうように亡父の遺産を点検する意思でした行為などを考える余地は全く存しない。

なお、所論は、被告人に不法領得の意思がなく、一部の現金については占有移転の事実すらなかつたことの論拠として、被告人が名嘉正順らの仲裁によつてよね子と仲直りができると信じていたし、そのように信ずるに足りる事情があつたと主張しているが、右主張のような事実の存在しなかつたことについてはさきに説示したとおりであるから再説しない。

以上のとおり、原判決には所論が主張するような審理不尽も事実の誤認もなく、同判示第一の事実が刑法二四〇条後段に該当するとした原判決の法令の適用にも誤りはないから、論旨は理由がない。

控訴趣意第三(量刑不当の主張)について

所論は、要するに、原判決は、本件強盗殺人の事実について、犯行の態様は執拗かつ残忍であり、動機にも同情すべき余地は殆どないとしているが、その判断は事件の実態からかけ離れたものであるうえ、原判決がいうように被告人が右犯行を他に転嫁しようとした事実も全くない。そして、被告人の右犯行が名嘉正順の使嗾によるものであること、よね子の理不尽な態度が被告人の暴行を誘発したこと、被告人は感情が激化する傾向の持主であり、よね子に暴行を加えた際は、同女の誘発行為により感情の爆発的状況にあつたもので、その精神状態は刑法上の心神喪失ないし心神耗弱に準ずるようなものであつたこと、原判示第二の死体遺棄は、よね子が死亡した事実に動転した余りの被告人の行為で、その態様も殺害現場に死体をそのまま放置した行為と大差のない比較的違法性の軽微なものにすぎないこと及び他の同種事犯に対する量刑との均衡などを考慮すると、被告人を無期懲役に処した原判決の量刑は、余りにも甚しく苛酷なものであるというのである。

そこで、訴訟記録並びに原審及び当審において取り調べた証拠によつて検討するのに、所論は原判決が量刑の理由として説示しているところを種々論難しているけれども、被告人は、昭和五一年一月七日午后零時三〇分ころから、かりにも継母の立場にある、年齢も既に五十歳に達した無抵抗の婦女に対し、顔面を殴打し、襟首をつかんで引き倒し、両手両足をコードで縛り上げ、二重に猿ぐつわをかけたのち、頭髪を両手でつかんでその顔面を何度となく畳に打ちつける暴行を加えたうえ、殺意をもつてまず原判示の四畳半の間において、用便を果すのも許さず、同女の体の上に六枚の布団を積み重ねて午后二時ころまで放置し、更にその後これを原判示の八畳の間に移し、同女が涙を流して助命を哀願しているのにこれを無視し、引き続き殺意をもつて前記のように手足を緊縛され二重に猿ぐつわをかけられた状態でうつ伏せになつている同女の体の上に一一枚もの布団を積み重ね、これを同日午后五時ころまで放置して遂に同女を窒息死させたもので、その犯行の態様は執拗かつ残忍というほかなく、その犯行の動機も、継母が被告人の父親を焼死させたという確たる根拠があるわけではないのに、その容疑で同女を告訴するとおどして同女から金を出させようという考えで、同女方を訪れ、同女を詰問したうえ、いきなり同女に暴行を加え、感情の激するまま同女を殺害しようと決意し、前記のような方法で同女を殺害し、その間財物奪取の犯意を生じて金品を強取したというもので、その背景には当時被告人が経済的にも精神的にも追いつめられていたという事情があるけれども、被告人がそのような窮地に陥つていたのも、被告人の長年にわたる無責任かつ乱脈な生活の当然の結果というべきものであり、その犯行の動機に同情すべき余地は殆どないうえ、被告人が原審第七回及び第八回公判において供述しているところは、自己の殺人という重大な刑責を名嘉紀男に転嫁しようとした以外の何物でもない。以上の諸点のほか原判決が量刑の理由において被告人に不利な情状として指摘しているところはいずれも正当としてこれを是認することができる。

なお、所論は、本件強盗殺人の犯行は名嘉正順の使嗾によるものであり、被告人のよね子に対する暴行は同女の誘発によるものであると主張しているが、右主張のような事実は存在しない。また、所論は、本件強盗殺人の犯行当時の被告人の精神状態は心神喪失ないし心神耗弱に準ずるようなものであつたと主張しているが、関係証拠によつて認められる被告人の右犯行当時の言動に理解し難い奇矯な点があるわけでもなく、その精神状態が右主張の如きものであつたと疑うべきかどは存しない。

従つて、原判決が指摘する被告人に有利な諸事情及び所論の指摘する本件死体遺棄の犯行態様や他の同種事犯との刑の均衡を考慮し、かつ原判決後被告人とよね子の両親との間に被告人の亡父の遺産の分割について調停が成立し、右調停によつてよね子の両親が取得することとなつた財産には、同人らがよね子の遺族として被告人から支払われるべき損害賠償金一、五〇〇万円が含まれていることなどを斟酌してみても、被告人を無期懲役に処した原判決の量刑はやむを得ないものと判断され、決して所論が主張するように常軌を逸した苛酷なものとはいえないから、論旨は理由がない。

よつて、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は、同法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととして、主文のとおり判決をする。

(裁判長裁判官 四ツ谷巖 裁判官 杉浦龍二郎 裁判官 阿蘇成人)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例